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教育技術法則化運動論2


教育技術の法則化運動の説明の続きです。

1 教育技術は、願望達成を実現するための具体的な行為である

  例えば、跳び箱の跳べない子がいたとして、「跳び箱が跳べるよう
なりたいな〜。」という「願い」を持っているとしましょう。
  このとき、良心的な教師であれば誰でも、「何としても跳び箱を跳ば
 せてあげたい」という「願望」を持つことでしょう。
  この「願望」を具体化する術(すべ)・具体的な行為が教育技術です
 言い換えれば、直接に働きかける行為が教育技術です。
  どんなに強い「願望」を持っていたとしても、それを具体化する・実現
 する術を持たなければ、その教師はその局面において無力でしょう。
  
医療を例にとると分かりやすいと思います。
  「ある患者のこの病気を治したい。」と医者が強く思ったとします。 
しかし、その病気を治すための医療行為あるいは医療技術を持ち合
 わせていないとき、その医者は無力です。どんなに強く「病気を治した
 い」と思っていたとしても、それは無力なのです。
  このとき、必要なのは何より「その病気を治したい」という「願望」を 
 実現する・具体化する技術なのです。具体的な行為なのです。


  ところで、教育界においてはこれまで、この「教育技術」というものが
 蔑まれてきた風潮がありました。軽んじられてきた風潮がありました。
  例えば次のような言葉からもそれが分ります。

   「技術に走りすぎだ。」  
   「大切なのは技術ではない。愛情だ。情熱だ。」
   「法則化運動は技術主義だ。」
   
 技術よりも、愛情・理念・思想の方が大事だというわけです。
 このように「教育技術」は不当な扱いを受けてきました。
 教育という営みは思想・願い・理念などという「内的な面」と、直接働
 きかける「外的な面(外的に現れる面)」の二つを併せ持ちます。この
二つは不可分で、対立概念ではありません。
 対立概念どころか、表裏一体のものです。先の程の「跳び箱の話」「
医療の話」からもうなづけると思います。
 なのに、教育界においては、「内的な面」に異常なほどウェイトが置かれ、「外的
な面」例えば「教育技術」が軽んじられてきた風潮がありました。
 
このようなこれまでの実情に対し、初めて「教育技術」という面から教育を主張
し、その運動を始めたのが「教育技術の法則化運動」なのです。
 もしかしたら「初めて」ではないかもしれません。しかし、これほど明快に「教育
技術」を主張し、しかも団体名にそれを盛り込んだのは、「教育
技術法則化運動」が初めてだと思います。

 ある教育技術を使うのも、その前提に「できるようにさせたい」「分るようにさせ
たい」「その子を伸ばしたい」「その子の可能性を引き出したい」という、その子に
対する「切ない思い」、「いとおしさ」があるからです。
 このような教師としての「願望」を実現する具体的な行為が、教育技術なのです。
 
 私たちは日本全国からこの教育技術、それも優れた教育技術を集め
試し、検討して、みんなの財産にしていこうという運動をやっていっているのです。
 そう思うのも、「子ども一人一人を伸ばしたい」「可能性を引き出したい」という
切ない願いからです。
 そのような技術があるのに、「知っていても使わない・試さない」(もし、それよ
り優れた・効果のある技術を知っていれば別ですが)、そのような態度で教師がある
とき、その教師は子どもに対して不遜だと思うのです。
 このような態度は医療界だったら許されることでしょうか。
 教育技術を集め、試し、使うのも、始まりは「子どもへのいとおしさ」からです。
 「教育技術の法則化運動」は技術主義ではなく、「やさしさの思想」であふれてる
と、私は思うのです。(手前未曾有な言い方かもしれませんが・・・)

 次回は、この教育技術について、

  1 ある教育技術を知る。
  2 ある教育技術を理解する。
  3 ある教育技術を使う。
  4 ある教育技術を使いこなす。
  5 優れた教育技術の中から、そのとき必要なものを選択し、使う
  6 優れた教育技術の中から、そのとき必要なものを瞬時に選択
   し、使いこなす。
  7 優れた教育技術をそのときの状況に合わせて、組み合わせて使
   かう。
  8 優れた教育技術を開発する。
 
という段階があり、これを意識して教師修行していくことが力量を高めることになる
ということを述べたいと思います。


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